2026年現在、大正・昭和・平成・令和の4つの時代を駆け抜け、皇室の歴史の生き証人として歩まれ続けた三笠宮崇仁親王妃百合子殿下の御生涯とご活動の足跡に改めて大きな注目が集まっています。1923年(大正12年)の誕生から、戦中・戦後の激動期を経て、令和6年11月に101歳で薨去されるまでの日々は、日本の近代皇室の歩みそのものでした。
本稿では、宮内庁の公式記録や報道各社の取材データに基づき、ご誕生から華族としてのご育ち、三笠宮家でのご活動、そして晩年の穏やかな日々から聖路加国際病院でのご臨終、豊島岡墓地での斂葬の儀に至るまでの詳細な経緯を解説します。
大正・昭和・平成・令和を生き抜かれたご誕生からご結婚まで

崇仁親王妃百合子殿下は、1923年(大正12年)6月4日、子爵・高木正得の第2女子としてお生まれになりました。旧名は高木百合子と申し、幼少期から恵まれた環境の中で品格を高められ、1928年(昭和3年)には女子学習院幼稚園に入園。その後、1941年(昭和16年)に女子学習院本科を卒業されました。
同年10月3日には納采の儀を経て、大正天皇の第4皇子であり昭和天皇の弟宮であられる三笠宮崇仁親王殿下とご婚約。同月22日には結婚の儀を挙げられ、三笠宮家の一員となられました。当時、日本は戦時体制へと突入していく非常に緊張感に満ちた時代であり、百合子殿下にとっても皇族としての重責を担う波乱の門出となりました。
戦中・戦後のご苦難と三笠宮家でのご家庭
結婚からわずか2年6か月後の1944年(昭和19年)4月26日には、第1女子である甯子内親王がお生まれになりました。しかし、戦局は悪化の一途をたどり、1945年(昭和20年)5月には宮邸であった青山東御殿が東京大空襲により全焼するという悲劇に見舞われました。
当時の伝記などの記録によると、百合子殿下は当時1歳であった長女の甯子内親王をしっかりと抱え、防空壕での避難生活を余儀なくされました。宮家の防空壕には、当時の青年将校らが次々と避難し、戦争の継続や日本の将来を巡って激論を交わしていたという緊迫したエピソードも残されています。そうした筆舌に尽くしがたい戦中・戦後のご苦難を乗り越えながら、百合子殿下はのちに生まれる子供たちを含む5人の子宝に恵まれ、育児日誌をつけたり手作りの写真アルバムを作成したりと、限られた時間の中でも愛情深く子育てに向き合われました。
三笠宮家ご活動の軌跡と主要マイルストーン年表
戦後、日本が復興を遂げ、令和に至るまでの長い年月において、百合子殿下は三笠宮崇仁親王殿下を支えながら、数々の皇室公務や社会活動に尽力されました。また、皇室会議の予備議員を務められるなど、公務の要所でも重要な役割を果たされてきました。
以下に、百合子殿下の御生涯における主な歩みをまとめた年表を掲載します。
| 時期・年月日 | 出来事・主な記録 | 備考・詳細 |
|---|---|---|
| 1923年6月4日 | 誕生 | 子爵・高木正得の第2女子(旧名:高木百合子)として生まれる。 |
| 1941年10月22日 | 結婚の儀 | 大正天皇第4皇子・三笠宮崇仁親王殿下とご結婚。 |
| 1945年5月 | 東京大空襲 | 青山東御殿が全焼。長女を抱えての防空壕生活を経験される。 |
| 2023年6月4日 | 百寿(100歳)を迎えられる | 記念の文書を発表。「これからも人々の幸せを祈念しつつ過ごしたい」と述べられる。 |
| 2023年9月 | 皇室会議予備議員 | 長年務められた皇室会議予備議員を退任。 |
| 2024年11月15日 | 薨去(101歳没) | 入院先の聖路加国際病院にて、老衰のためご薨去。 |
| 2024年11月26日 | 斂葬の儀(葬場の儀・墓所の儀) | 豊島岡墓地の三笠宮家墓所に埋葬される。 |
百寿(100歳)を迎えられたご日常と健康法
2023年(令和5年)6月4日、百合子殿下は皇族として戦後初となる100歳(百寿)の誕生日を迎えられました。宮内庁が発表したご近況によると、ご高齢となられてからも規則正しい健康的な生活を続けられていました。
健康維持のため、午前中には約15分程度のテレビの体操番組に合わせて身体を動かされ、天気の良い日には宮邸の庭で日光浴を楽しんだり、車椅子で赤坂御用地内を散策されたりしていました。また、複数の新聞や雑誌に目を通すことを日課とされ、テレビでニュースや大好きな野球中継をご覧になることが日々の大きな楽しみであったと伝えられています。100歳の際に寄せられたご感想では、5人の子供たちの育児や家族のアルバム作りに追われた日々を懐かしく回想され、孫やひ孫たちの健やかな成長を温かく見守られていました。
令和6年の容態悪化から聖路加国際病院での薨去へ
2024年3月にご入院されて以降、百合子殿下は療養を続けられていましたが、同年11月に入りご体調の変化が伝えられました。同年11月7日の検査により、心臓や腎臓をはじめとする全身の機能低下が進んでいることが判明し、翌8日に宮内庁から容態悪化が発表されました。
その後は血圧の低下が見られ、呼びかけに対する反応が徐々になくなられるなどご危篤の状態が続きました。そして、容態悪化の発表から約1週間後となる2024年(令和6年)11月15日午前6時32分、入院先の聖路加国際病院において、老衰のため静かに息を引き取られました。享年101。夫である三笠宮崇仁親王殿下が亡くなられてから8年、そして令和への改元後初となる皇族の薨去となりました。
斂葬の儀と豊島岡墓地へのご納骨の詳細
百合子殿下の御遺体は、薨去当日の11月15日午前9時半に聖路加国際病院から三笠宮邸へと移送されました。その後、厳かな皇室の伝統儀式が執り行われました。
11月16日夕刻の「御舟入」に始まり、24日の「正寝移柩の儀」、通夜、25日の「霊代安置の儀」を経て、11月26日午前9時半には本葬に当たる「斂葬の儀」の霊車発引の儀が執り行われました。同日午前10時からの「葬場の儀」、そして午後16時半からの「墓所の儀」が、孫であられる彬子女王殿下を喪主に、尚友倶楽部の坊城俊在を司祭長として厳粛に執り行われました。祭壇には2023年の百寿の際に撮影された穏やかなお写真が飾られました。
葬場の儀のあと、御遺体は落合斎場で火葬に付され、御遺骨は豊島岡墓地にある三笠宮家の墓所に埋葬されました。副葬品には、ご家族の写真、故人が大切に保存されていた5人の子どもたちの乳歯、お母さまである高木邦子氏が手縫いされた着物、そして晩年に楽しまれていた漢字パズルなどが納められ、深い愛情に包まれながら永眠につかれました。
【崇仁親王妃百合子】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:崇仁親王妃百合子殿下の旧名やご実家の背景は何ですか?
A1:旧名は高木百合子といい、子爵・高木正得の第2女子としてお生まれになりました。伝統的な旧華族のご出身です。
Q2:百合子殿下のお印は何ですか?また、どのような意味がありますか?
A2:お印は「桐(きり)」です。皇族方が身の回りの持ち物などに用いられるシンボルであり、百合子殿下を象徴する意匠として親しまれました。
Q3:薨去された際の年齢や理由は何ですか?
A3:2024年11月15日に聖路加国際病院にてご薨去されました。享年101歳で、死因は老衰によるものでした。
大正、昭和、平成、令和という激動の4つの時代を生き抜かれた崇仁親王妃百合子殿下。戦中・戦後の筆舌に尽くしがたいご苦難を乗り越え、三笠宮家をしっかりと守り抜かれたそのお姿は、国民に深い感動と敬愛を与えてきました。
101年というご生涯の歩みや、日々の暮らしを大切にされながら公務と育児を両立された足跡は、日本の近代皇室の歴史において永遠に記憶されるべき貴重な記録です。その穏やかなお人柄と気高いご姿勢は、これからも多くの人々の心に深く刻まれ続けることでしょう。