ホーム 芸能ニュース・ゴシップ 1936年の二・二六事件:皇道派青年将校の蜂起から終息までの経緯と歴史的影響の全貌

1936年の二・二六事件:皇道派青年将校の蜂起から終息までの経緯と歴史的影響の全貌

早瀬 結衣 早瀬 結衣 • 更新: • 公開: • 読了約 7 分
目次

1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて発生した「二・二六事件」は、昭和の日本史における最も重大な軍事クーデター未遂事件です。皇道派の陸軍青年将校らが1,483名の下士官と兵を率いて蜂起し、永田町や霞ヶ関の一帯を占拠するとともに政府要人を襲撃しました。当時の政治状況や軍部内の対立がどのようにこの悲劇的な事件を引き起こしたのか、その背景と経緯、そして歴史的影響に至るまで、公式記録や一次資料を基に徹底的に解説します。

二・二六事件とは何か:昭和11年に起きた日本史上最大のクーデター未遂

二に六事件

二・二六事件(ににろくじけん)は、昭和11年(1936年)2月26日から29日にかけて、日本の陸軍青年将校たちが中心となって起こしたクーデター事件です。いわゆる皇道派に共鳴する将校たちが、国家改造と昭和維新を掲げて蜂起しました。彼らは既存の政党政治や財閥、官僚機構が国家を誤らせていると主張し、天皇親政の実現を目指して実力行使に踏み切りました。

事件当時は大雪が降る極寒の朝であり、叛乱部隊は各々の目標地点へ向けて雪を踏みしめながら進軍しました。首相官邸や内大臣府、侍従長公邸などが次々と襲撃され、近代日本の憲政史上かつてない混乱が引き起こされました。この事件は単なる軍人による暴動ではなく、当時の軍部内部における派閥争いや、社会不安を背景とした構造的な危機が表面化したものでした。

蜂起から政府要人襲撃までの詳細な経緯

反乱当日の早朝、安藤輝三大尉が率いる襲撃部隊は、第1小隊の永田露曹長や第2小隊の堂込喜市曹長らとともに、麹町区三番町の侍従長公邸に乱入しました。そこで鈴木貫太郎侍従長に対し、永田・堂込両小隊長から複数の拳銃弾が撃ち込まれ、鈴木は瀕死の重傷を負いました。しかし、妻である鈴木たかの懇願により安藤大尉は止めを刺さず敬礼をして立ち去り、鈴木は辛うじて一命を取り止めました。

また、この襲撃の最中、少年期の昭和天皇の教育係であった鈴木たかは、事件発生を伝えるために天皇へ直接電話をかけ、宮内省の医師派遣を依頼しました。この電話が、宮中へ襲撃事件を知らせる最初の第一報となりました。一方で、別の襲撃部隊に標的にされた前首相の斎藤実の邸宅では、夫が蜂の巣にされるのを見た妻・春子が「撃つなら私を撃ちなさい」と銃を乱射する青年将校たちの前に立ちはだかり、筒先を掴んで制止しようとして腕に貫通銃創を負う激しい場面もありました。

二・二六事件の発生から鎮圧に至るまでの流れを、以下の表に整理します。

時期・日時 発生した出来事 主な関係者・備考
1936年2月26日未明 皇道派青年将校らが1,483名の兵を率いて蜂起、東京の主要官庁街を占拠 安藤輝三大尉、下士官・兵
2月26日早朝 政府要人邸宅への襲撃が相次ぎ、鈴木貫太郎や斎藤実らが標的に 鈴木貫太郎、斎藤実、高橋是清など
2月26日夜 陸相官邸で軍事参議官会談が開催されるも明確な結論に至らず 荒木貞夫、真崎甚三郎ら軍事参議官
2月27日〜28日 戒厳令が布告され、政府側による包囲と説得工作が本格化 戒厳部隊、昭和天皇(奉勅命令)
2月29日朝 近衛輜重兵大隊の青島健吉中尉夫妻が自刃。反乱部隊の帰順が完了 青島健吉中尉、大半の下士官・兵が帰順

戒厳部隊の包囲と事件の終息、そして皇族・将官の動き

蜂起した当日夜の午後9時、主立った反乱部隊の将校らは陸相官邸に赴き、皇族を除いた荒木、真崎、阿部、林、植田、寺内、西らの軍事参議官と会談を持ちました。この会談には蹶起者に同調的な鈴木貞一、橋本欣五郎、満井佐吉も列席しましたが、具体的な解決策や指導方針はまとまりませんでした。真崎甚三郎は手記において、「諸官は自分を内閣の首班に期待しているようだが……お上に対して強要となり、臣下の道に反するので断じて引き受けることはできない」と述べています。

事態を重く見た昭和天皇は、叛乱軍に対して強い不快感を示し、早期の鎮圧を命じました。これにより「奉勅命令(天皇の命令)」が下され、戒厳部隊が反乱部隊の包囲網を敷きました。2月28日を過ぎると形勢は逆転し、ラジオ放送やアドバルーンなどを通じた「下士官兵に告ぐ」という説得工作が行われました。その結果、大半の兵士たちが隊営へと帰順し、青年将校らも自決した一名を除いて逮捕され、2月29日には事実上の収束を迎えました。同年2月29日朝には、近衛輜重兵大隊の青島健吉中尉が自宅にて自刃するなど、事件の傷跡は軍内部に深く残りました。

政治的影響と昭和体制の変容:岡田内閣の総辞職から統制派の台頭へ

二・二六事件の結果として、岡田内閣は総辞職を余儀なくされました。後継内閣として成立した廣田内閣のもとでは、軍部の政治介入がさらに強まり、思想犯保護観察法が成立するなど治安統制が強化されました。皇道派はその指導的立場を失い、逆に統制派が陸軍内の実権を握ることになりました。

この事件は、日本がより一層、軍国主義的な体制へと傾斜していく決定的な分岐点となりました。政府要人の多くが命を落としたり重傷を負ったりしたことで、政党政治の力が完全に衰退し、軍部が国家の進路を主導する構造が固定化されることになったのです。

【二に六事件】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:二・二六事件を起こしたのはどのような人たちですか?
A1:主に陸軍内の「皇道派」と呼ばれる思想に共鳴した青年将校(中尉や大尉クラス)が中心となり、1,483名の下士官と兵を率いて蜂起しました。

Q2:事件の最大の引き金や目的は何だったのですか?
A2:彼らは既存の政党政治や財閥が国家を乱していると考え、天皇親政による国家改造(昭和維新)を実現することを目的としていました。

Q3:事件はどのようにして終結したのですか?
A3:昭和天皇が反乱軍に対して強い鎮圧の意志を示し、奉勅命令を受けた戒厳部隊が包囲網を敷いたこと、また説得工作により兵士の大半が帰順したことで収束しました。

二・二六事件は、日本の近代史において軍部が政治への直接介入を試みた最大のクーデター未遂事件であり、その後の日本の行く末を決定づけた重大な歴史的転換点でした。皇道派青年将校たちの焦燥と国家改造への理想は、結果として軍部内の権力構造を大きく変え、政治の軍部主導化を加速させることになりました。歴史の教訓として、国家権力と軍事組織、そして市民社会のバランスがいかに脆く、かつ重要であるかを現在に伝える重大な事件として記憶されています。

同じカテゴリの記事

早瀬 結衣
コンテンツディレクター 早瀬 結衣
プロフィールを見る →

全記事の校正と事実確認を担当。固有名詞・日付・数値を公式発表と照合し、確認できない箇所は公開前に差し戻す運用をしています。

おすすめの関連記事