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日本映画史上最も殺陣が上手いと称された伝説の時代劇俳優・近衛十四郎の経歴と真相

小野田 圭 小野田 圭 • 更新: • 公開: • 読了約 8 分
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2026年現在も日本の映画史において、圧倒的な殺陣の技術とニヒルな存在感で語り継がれている伝説の時代劇俳優・近衛十四郎。戦前から戦後にかけての波乱に満ちた経歴や、息子である松方弘樹との深い絆、そして最期まで俳優としての矜持を貫いたその生涯は、今なお多くの時代劇ファンを魅了し続けています。

本記事では、公式記録や信頼できる報道データをもとに、近衛十四郎の歩んだ軌跡、伝説と呼ばれる所以、そして晩年の知られざるエピソードまでを徹底的に紐解いていきます。

戦前から戦後へ:波乱に満ちた経歴と苦難の時代

近衛十四郎

近衛十四郎(本名:目黒寅彦)は1914年4月10日、新潟県長岡市で生まれました。若くして父を亡くしたものの、母の手によって育てられた彼は、やがて映画界へと足を踏み入れます。1941年には女優の水川八重子(本名:角西やゑ)と結婚し、公私ともに新たな人生の歩みを始めました。

しかし、時代は太平洋戦争の激化とともに大きなうねりに飲み込まれます。1942年、戦時映画社の統合により大都映画社が日活・新興キネマと合併して大映が誕生しました。当時、大映にはすでに阪東妻三郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門といった剣戟四大スターが君臨しており、近衛に出番は回ってきませんでした。さらにフィルム統制による製作本数の激減により多くの俳優が職を失う中、近衛は妻・やゑとともに大都映画の退職金を投じ、一座を結成。総勢50名近い大所帯を率いて全国各地を実演興行して回るという、苦難のサバイバルを選択しました。

戦後は新東宝からカムバックを果たし、『江戸群盗伝』『修羅桜』などで主演を務めました。その後、松竹時代劇の屋台骨を支えていた阪東妻三郎の急逝を契機に、松竹のチーフ監督・大曾根辰夫にスカウトされ、1954年に松竹へ正式に移籍。高田浩吉とともに松竹時代劇の黄金期を支える存在となりました。

東映への移籍と「日本映画史上最高」と称された殺陣の秘密

1959年、松竹が時代劇映画制作からの撤退を発表すると、近衛は邦画界で観客動員数No.1を誇っていた東映へと移籍します。1960年代に入ると、第二東映の看板スターとして、またヒーロー然としないニヒルな浪人役として独自の地位を築いていきました。

近衛十四郎の代名詞といえば、何と言ってもその圧倒的な「殺陣(たて)」の技術です。「古東西ナンバー1」「日本映画史上最も殺陣の上手い役者」と称されたその背景には、類まれな身体能力と徹底的なこだわりがありました。『柳生武芸帳』シリーズ(1961年〜1963年)で主役の柳生十兵衛を演じた際には、構えた際の画面映りの良さ、速い剣捌き、そして振り回したときの迫力を最大限に魅せるため、通常より刀身の長い特注の刀を愛用していました。これらは強靭な手首を持つ近衛自身が発案・開発したものであり、映像としての美しさとリアリティを極限まで追求した結果でした。

時期・年代 主な所属・映画会社 代表的な出来事・出演作
1940年代前半 大都映画 〜 大映 戦時下の映画統制に直面。妻・水川八重子と一座を結成し全国を巡業。長男・浩樹(松方弘樹)誕生。
戦後〜1950年代 新東宝 〜 松竹 『江戸群盗伝』などで復帰。阪東妻三郎の死去に伴い松竹へ移籍し、高田浩吉と共に時代劇を牽引。
1960年代 東映(第二東映) 東映に移籍し看板スターへ。『柳生武芸帳』シリーズで柳生十兵衛を好演。長男の弘樹も東映でデビュー。
1970年代 フリー・実業家 体力の低下から事実上の引退状態へ。会社経営や釣り堀の運営を行い、1977年に波乱の生涯を閉じる。

息子・松方弘樹との絆と、晩年の知られざる日々

近衛十四郎の血筋は、長男である松方弘樹をはじめとする家族にも色濃く受け継がれました。1961年には長男の弘樹も東映で主演デビューを果たし、親子二代にわたる俳優としての活躍は当時の映画界の大きな話題となりました。また、父親譲りの豪快な酒豪としても知られ、撮影現場やプライベートでも周囲を大いに賑わせました。

しかし、晩年は健康状態の悪化が影を落とします。糖尿病、肝硬変、高血圧を抱えていた近衛は、医師から厳格な節酒を言い渡されていました。そんな彼の精神的な支えとなっていたのが、妻のやゑでした。しかし1976年7月25日、妻が胃がんのため死去。この喪失感は近衛にとって計り知れず、医師からの忠告を破り、それまで控えていた酒を浴びるように飲むようになっていきました。

最期まで貫いた俳優魂と、釣り堀「天国」での劇的な幕引き

現役を退いた晩年の近衛十四郎は、各種の会社経営を手がける傍ら、無類の趣味であった「釣り」に没頭しました。ロケには必ず釣り竿を持参するほどの愛好家であり、日本各地で竿を振るう日々を送っていました。妻を失ってからは、その傾向が一層強まったと言われています。

京都府亀岡市にある5千平方メートルの山林に、長男の松方弘樹と2000万円を共同出資して作った釣り堀「天国」は、彼の晩年のいわば安住の地でした。しかし1977年5月20日、その愛する釣り堀でヘラブナ釣りを楽しんでいた最中、脳内出血で倒れます。病院に搬送され一時意識を取り戻したものの、血圧が260を記録するなど病状は急変。1977年5月22日夜、昏睡状態のまま帰らぬ人となりました。

最期まで自分の愛する道と酒、そして家族との絆を大切にし続けた近衛十四郎。その激しくも美しかった生き様は、日本映画史の金字塔として、今も色褪せることなく人々の記憶に刻まれています。

【近衛十四郎】に関するよくある質問(FAQ)

Q1:近衛十四郎の代表作や最も有名な役柄は何ですか?
A1:『柳生武芸帳』シリーズにおける主役・柳生十兵衛役が特に有名です。長身の刀を駆使した圧倒的な殺陣とニヒルな浪人役は、当時のファンに絶大な衝撃と人気を与えました。

Q2:息子である松方弘樹さんとの関係はどうでしたか?
A2:親子ともに東映で活躍した俳優であり、互いに深い絆で結ばれていました。晩年には京都府亀岡市に共同出資で釣り堀「天国」を開業するなど、私生活でも深い交流がありました。

Q3:なぜ「日本映画史上最も殺陣が上手い」と言われているのですか?
A3:卓越した手首の強さと身体能力に加え、画面映えを追求して自ら通常より長い刀を開発・使用するなど、剣戟のリアリティと美しさを極限まで高めた独自のスタイルが、映画関係者やファンから高く評価されているためです。

戦前の過酷な巡業から戦後の映画黄金期、そしてテレビ時代の到来と第一線からの引退に至るまで、近衛十四郎の歩みはまさに波乱万丈そのものでした。過酷な運命や最愛の妻との死別を経験しながらも、己の美学と俳優魂を貫き通したその生き様は、単なる「殺陣の上手い役者」という枠を超え、昭和という時代の熱量をそのまま体現していたと言えます。

2026年を迎えた現在においても、彼が銀幕に残した圧倒的な剣戟と気高い佇まいは、日本映画の歴史における最高の宝物として、後世のクリエイターや時代劇ファンの心を強く揺さぶり続けています。

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コンテンツディレクター 小野田 圭
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スポーツとアニメの話題を担当。リーグ公式の記録、球団発表、制作委員会の公式告知を確認したうえで、数値と日程を本文に反映します。

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